熊野自慢 その9 「西村記念館」
熊野市の隣は和歌山県新宮市。熊野よりもだいぶ都会の新宮には、西村伊作が家族と暮らした家が、記念館として保存されている。伊作は1921年に東京お茶の水に文化学院を設立した。
1915年(大正4年)に建てられた家は、伊作が自分で設計監督して、スイスシャレーと生まれ故郷の奈良県北山村の民家のスタイルを取り入れてある。
このサロンには、与謝野寛、晶子夫妻、石井柏亭、佐藤春夫などが集った。
1920年に伊作は「楽しき住家」を出版する。
貴族などではない庶民が、いかにして、自由に美しく、そして楽しく暮らす「スウィートホーム」をつくればいいか、について述べている。その生活を、ここで9人の子供達と実践していたのだろう。曾祖父の蔵書にも、もちろんぼろぼろになった、「楽しき住家」はあった。
海外になど行ったことがない曾祖父が、診察室を寄木の床にしたのは、やはり伊作の助言だろう。寄木の床について伊作は「田舎の大工などでも少し説明してやればできる」「仕上げに蝋引をして磨くと、木目が交差しているから、光を色々に反射して美しく見えるが、リノリユームなどを敷いたのより安価」と書いている。
熊野の西村医院の設計を、伊作がしたかはわからない。だが、当時この辺りにある洋館のほとんどは、伊作の設計であった、という人もいる。
そして「楽しき住家」で、トイレを家から近くて臭くないものにするか、というくだりで、どうも我が家のすでに取り壊されていたトイレが、紹介されているようなのである。
しかしこのトイレ、母も、叔母達も使ったことはないらしく、伊作が言うように、本当に臭くなかったのか、は永遠の謎である。
1915年(大正4年)に建てられた家は、伊作が自分で設計監督して、スイスシャレーと生まれ故郷の奈良県北山村の民家のスタイルを取り入れてある。
このサロンには、与謝野寛、晶子夫妻、石井柏亭、佐藤春夫などが集った。
1920年に伊作は「楽しき住家」を出版する。
貴族などではない庶民が、いかにして、自由に美しく、そして楽しく暮らす「スウィートホーム」をつくればいいか、について述べている。その生活を、ここで9人の子供達と実践していたのだろう。曾祖父の蔵書にも、もちろんぼろぼろになった、「楽しき住家」はあった。
海外になど行ったことがない曾祖父が、診察室を寄木の床にしたのは、やはり伊作の助言だろう。寄木の床について伊作は「田舎の大工などでも少し説明してやればできる」「仕上げに蝋引をして磨くと、木目が交差しているから、光を色々に反射して美しく見えるが、リノリユームなどを敷いたのより安価」と書いている。
熊野の西村医院の設計を、伊作がしたかはわからない。だが、当時この辺りにある洋館のほとんどは、伊作の設計であった、という人もいる。
そして「楽しき住家」で、トイレを家から近くて臭くないものにするか、というくだりで、どうも我が家のすでに取り壊されていたトイレが、紹介されているようなのである。
しかしこのトイレ、母も、叔母達も使ったことはないらしく、伊作が言うように、本当に臭くなかったのか、は永遠の謎である。
by mobiliantichi | 2008-09-13 19:10 | 熊野自慢